山の王者マッターホルン

神秘的で凛々しいスイスの名峰マッターホルン。登山家や写真家にとっては偉大な象徴であり、スイスで最も有名なランドマーク、シンボルでもあります。世界中の多くの人々が魅了され、この地を訪れています。

山の成り立ち

孤高にそびえるマッターホルンは山の典型と見なされています。地球上でこれほどピラミッドに近い形をした山は他にないでしょう。アルプスには珍しい独立峰です。1億年前、巨大な地殻変動によってアフリカ大陸がヨーロッパに向かって押され、その5000万年後に巨大な岩盤が湾曲し始めました。マッターホルンはアフリカ大陸のプレートと言われており、隆起した岩から生じたのです。

名前の由来

マッターホルン」の名前の由来は明らかではありません。中世の文献では、マッターホルンは初め「Mons Silvus」と呼ばれていました。その後「Mons Servinus」や「Mons Servin」に変わり、最終的にフランス語で「セルヴァン(Cervin)」、イタリア語で「チェルヴィーノ(Cervino)」と呼ばれるようになりました。最初に「マッターホルン」と呼ばれたのは1682年です。ゴルナー渓谷の下に広がる草地「マッタ」から来ていると言われています。現在ツェルマット("zur Matt")がある場所です。ドイツ語名は「マッターホルン」、イタリア語名は「モンテ・チェルヴィーノ」、フランス語名は「モン・セルヴァン」です。ツェルマットの地元の人々は方言で、「ホール」と省略して呼びます。

初登頂ストーリー

マッターホルン登頂の試みは、1857年から幾度かされてきました。そのほとんどがイタリア側からの挑戦でしたが、失敗に終わっていました。イタリア王国は1861年に成立したため、イタリア人登山家による初登頂が成功していれば、国家的な偉業と捉えられていたことでしょう。英国では登山の黄金時代が終わりを告げようとしていました。既にアルプス山脈にある4,000メートル級の山はほとんど制覇されていたからです。最後に残った大物、マッターホルンはそれまで登頂不可能とされていました。

しかし1865年7月14日、ついに7名のザイルパーティーが登頂を成功させます。登山隊のメンバーにはツェルマットの山岳ガイドのペーター・タウグヴァルダー父子とイギリス人登山家エドワード・ウィンパーが含まれていました。ウィンパーは既に何度もマッターホルン登頂を試みていました。登山隊はヘルンリ稜から「肩」と呼ばれる地点に登りました。さらに登り、現在ではロープが設置されているポイントから北壁に向かいました。エドワード・ウィンパーとタウグヴァルダー父子が最初に山頂(4,478メートル)に到達しました。その後、山岳ガイドのミシェル・クロ(シャモニー)、チャールズ・ハドソン牧師、フランシス・ダグラス卿、ダグラス・ロバート・ハドウ(英国)が続きました。肩上を下山中、ザイルパーティーの最初の4人(クロ、ハドウ、ハドソン、ダグラス)が北壁に滑落して死亡しました。数日後、マッターホルン氷河から3人の遺体が発見されましたが、フランシス・ダグラス卿の遺体は今も見つかっていません。

死亡事故により観光地へ

フランシス・ダグラス卿の死をうけて、ビクトリア女王は今後、貴族が登山で命を落とすことを防ぐため、マッターホルン登山を禁止する意向を示しました。すると、その動きに興味をそそられ奮起した英国人登山家たちが大挙してツェルマットに押し寄せ始めました。マッターホルンを見物し、登山するためです。これがツェルマットの観光の始まりでした。ツェルマットは長年、英国からの観光客を迎えていますが、今も人気は衰えていません。

マッターホルンの犠牲者

1865年から2013年の夏の終わりまでに、約500人の登山家がマッターホルンで命を落としました。山の死亡事故を減らすため、1980年代にマッターホルンの尾根(山頂の三角形の部分)に固定ロープが設置されました。ロープは毎年、春に点検・修理されています。理想的な天候の日は、最高300人の登山家がマッターホルンの登頂に挑みます。毎年、約3,500人の登山家が運試しをして、65パーセントが失敗しています。山岳ガイドをつけずに挑戦するのが失敗の主な原因です。

ヘルンリヒュッテ

マッターホルンの玄関口となるのは、標高3260メートルのヘルンリヒュッテです。シュヴァルツゼーより約2時間のハイキングで到着します。マッターホルン登攀だけでなく、小屋までのハイキングをして、目の前に聳える迫力満点のマッターホルンをテラスで眺めるのも素敵な時間です。

1865年の初登頂以来、今や登ることが可能になった唯一無二の山マッターホルンへの来訪者は増える一方でした。そのため1880年にスイス山岳会モンテローザ支部の主導で、ベッド17台を持つ最初の山小屋「ヘルンリヒュッテ」が建設されました。以来、マッターホルンの登山拠点として、また悪天候の際の避難所として、数え切れないほどの登山者たちが山小屋を利用してきました。

1911年にはツェルマットの自治体がヘルンリヒュッテの近くに「ベルグハウス・マッターホルン(ベルヴェデーレ)」を建設しました。1987年までは2つの山小屋が別々に管理されていたため、多くの問題が起こりました。スイス山岳会モンテローザ支部とツェルマット自治体は協議の上、ヘルンリヒュッテもベルヴェデーレの管理下に置くことを決めました。

増え続ける利用者に対応するため、2つの山小屋はその後数十年にわたって建て増しを繰り返してきました。1982年の改修・増築で定員は合わせて170人となりました。

そして2015年7月14日のマッターホルンの初登頂から150周年の記念日に、スイス山岳会が最初に建設したキャビンは取り壊され、改修された新ヘルンリヒュッテがリニューアルします。ベルヴェデーレにも多少の改修を施し、近代的で機能的な新施設と連結します。建物はすべて、環境への配慮や、エネルギーと水の供給、安全性、衛生、機能性といった現代的な条件を満たしています。